しろいし緑の芸術祭

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「心がポッと温かくなるシンボリックな作品を」塚本猪一郎インタビュー

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「しろいし緑の芸術祭」参加アーティストへのインタビュー企画。第3回目は、佐賀を拠点に活動する塚本猪一郎さん。
抽象画、版画、立体のオブジェなど幅広い方法で制作を行う塚本さんのこれまでの歩みや、制作の信条などについてお話を伺いました。

「作意のない」絵を描く

—まずは塚本さん自身のことを伺いたいのですが、絵や美術をやろうと思ったきっかけを教えてください。
子どもの頃、いつも家に紙が100枚あったんですよ。絵を描くも、破るも自由で、なくなったらまた補充されて。自由にガチャガチャやっていましたね。
でもずっと絵を描いていたわけではなくて、途中ラジコン作りにハマったり、中学生の時は剣道に熱中したり。中学3年生になると部活動が終わるじゃないですか。そのときに、美術部に行き出したんです。見よう見まねで石膏デッサンを自分でやってみたら、すごくおもしろかった。高校に入ったらまた剣道をやるつもりだったんですけど、美術部の顧問が友だちのお父さんで、部室の前を通ったら「よう来たよう来た!」って言われてそのまま美術部に入りました。1年生の終わりぐらいに「俺は絵で飯を食おう」と決めました。

—高校卒業後は、美術科のある大学に進学されます。大学時代はどのような絵を描かれていたんですか?
具象画です。今とは全然違う。今の作品を知っている人はびっくりするんじゃないかな。
大学の時は、具象をやろうと決めていたんです。ある程度納得できるまで具象をやって、それから抽象に入ろうと。やっぱり基本的な技術を身につけていた方がいいし、技術があったら、食うために絵画教室でも似顔絵描きでもできるじゃないですか。
具象画はもういいかなというぐらい描いたから、20歳くらいでいざ抽象をやろうとしたら、物を見ないで描くことを体が受け付けなくてどうしたらいいかわからなくなりました。2〜3年、山のように絵を描いたけど一枚もできなかった。自分の中で納得できないわけです。それが苦しかった。デッサンを忘れるのに3年くらいかかりました。

塚本さんが大学時代に制作した絵画。(写真は作家提供)

—どうやって描けるようになったのですか。
大学のデザインの授業で課題が出たときに「そうだ、名画を抽象化してデザインしてみよう」と思いついて、源氏物語絵巻とピカソの初期の具象画を抽象的に平面構成にしてみたんです。なんとなく要領がつかめたので、今度は現物の風景を自分の中で一旦消化して、抽象的に表してみました。そうしたら、大きな美術展に入賞。九州からは2人しか入賞していなかったんです。「やったやったやった!」って、ちょっと自信がついて、そこからだんだんって感じかな。

—大学卒業後はスペインに留学されますね。どのようななりゆきだったのですか。
元々、大学進学時に佐賀大学に行くか、パリの美術学校に行くかという選択肢があったんです。大学にいる頃も「いつかは行きたいな」と思っていました。でも、8年も大学にいたから学校はもういいかなという気持ちもあった。
それで、パリの版画家・ヘイターの版画工房「アトリエ17」(※)に入って、銅版画の一版多色刷りを教えてもらおうと思ったんです。
※…イギリス人の画家・版画家のスタンレー・ウィリアム・ヘイターが1933年、パリに設立した銅版画工房。ピカソ、シャガール、ミロなどシュルレアリストが集まったことで知られる。

ところが今みたいにインターネットとかなんもなくて、行き当たりばったりだから、どこにあるかもわからない。フランス語もわからない状態で行って、アパートを借りたけど、家賃が月17万円と。「これは住めんぞ」と思っていたら、バックパッカーの旅行者にスペインに日本人が経営している安い宿があると聞いて、マドリードに行ったんです。

塚本さんがパリの版画工房「idem」(以前は、ムルロー工房と呼ばれ、ピカソやマティスがリトグラフの制作を行なった)で制作したリトグラフ作品。リトグラフとは、平らな版面の上に絵や文字を描き、水と油の反発を利用して印刷する平板画。元々は、実用的な印刷技術であったが、ムルローらによりアートにも使われるようになった。(写真は作家提供)

宿の人と話してたら、「もうマドリードに住みなさい」って。ツテもないし言葉もわからないんだけど、たまたま知り合った旅行者が新婚旅行で日本から来ていた夫婦で、奥さんがスペイン語、旦那さんが英語を話せたんですよ。事情を話したら、「じゃあ、私たちの新婚旅行は、塚本さんの不動産屋周りをやろう」って。毎朝、新聞を見て不動産屋さんに行って物件を見て…それが彼らの新婚旅行になりました。別れ際、彼らに1万円を渡して辞書を買って送ってもらいました。だからそのスペイン留学の肩書きはね、見栄です。なりゆきでたどり着いている。

鑑賞ツアーで作品を紹介する塚本さん。ちなみに取材時は、スペイン留学時に現地の日本語学校で教えていた、一番偉大な画家はピカソと思う理由など、聞いているこちらも楽しくなるエピソードが尽きなかった。

—いろいろな運や巡り合わせが重なっていますね。スペインでは何をされていましたか。
毎日絵を描いていました。自分の部屋の壁に今日描いた絵をかける。次の日は、またその日描いた絵をかける。壁がいっぱいになるじゃないですか。そうなると、どれか外さないといけない。そうやってかけかえていくんだけど、ずっと外さない、一番気に入っている絵があるんですよ。それは、ああしたい、こう見えたい、といった作意のない絵だとわかって、目から鱗でしたね。今に至るまでずっと、僕の絵を描いていく上での一番の指針になっています。

カレンダーが道を開いてくれた

—スペインから帰国された後は、生まれ育った佐賀を拠点に活動されています。海外や国内の他の地域で活動される選択肢もあったと思いますが、なぜ佐賀に。
スペインには足掛け一年半ほど行って発見もありましたが、作為のない絵を自分の中ではっきりと確立できていなかったから、このまま向こうでやってもつぶれちゃいそうだと思ったんです。だから、佐賀でいいと。広い土地で、広いアトリエも持って、生活もそんなにギクシャクしないで、とりあえず描こうじゃないかと。
それと、僕は大学の2〜3年生ぐらいの時から、毎年佐賀で個展をやっているんです。最初は、1枚も売れません。でも、ずーっとやっていて、毎回必ず来てくれる人がいて、僕の変化をちゃんと見てくれている。それが、ものすごく大きな心の支えになっていたんですよ。

スペインから帰ってきた時に、佐賀の玉屋の美術画廊で展示をしたら、まとまった金額分の絵が売れたんです。「これはやっていけるばい!」って(笑)
ただ、当時(1985年ごろ)の佐賀は、家に絵をかけることも珍しいし、抽象画なんて市民権がないんですよ。
それで、版画のカレンダーを作ろうと思ったんです。カレンダーだったらかけてもらえるかもしれないし、手も出しやすい。贈り物にもできます。手摺りで限定番号を入れて、値段は4〜5千円ぐらい。最初に200部作ったらあっという間に完売しました。カレンダーをお歳暮や祝い品に使う人もいて、日本中に散らばり出したんですね。そうしたら県外のいろんな画廊から話が来るようになった。東京や大阪で今も個展ができているのは、全てカレンダーがきっかけです。カレンダーが営業してくれた。

—作品を手に取ってもらうことの大切さを感じます。立体のオブジェも制作されますが、その始まりはなんだったのでしょうか。
湯布院の『ゆふトピア』という保養施設に版画を70点くらい納めたときに、エントランスなどに置ける立体もほしいと言われたんです。お世話になっている画廊のオーナーに「塚本さんが描いている、版画の中の形とかが立体になって飛び出したらおもしろいかもしれないよ」と言われて、「じゃあやってみるわ」とやったのが最初ですね。

—それまでに作られていなかった立体を作るにあたって、誰かに学んだりしましたか?
それはないですね。必要が迫ってくると、それまでやってないことをもやれる。たいていはそうやって新しいことができるようになるんです。

塚本さんが制作した立体作品。ステンレスは硬いので鉄工所に加工を依頼するが、鉄は塚本さん自身が溶接することもある。(写真は作家提供)

—制作の幅が広がることで、変わったことはありますか?
同じものをずっと作っていると、自分の中で、マンネリ化して、作業になってきます。でも、例えば1年のうち2ヶ月くらいは版画を作る、鉄のオブジェを作る、とすると間ができるじゃないですか。絵を描くエネルギーが一旦切れて、別の制作をやって、また次に絵を描くときに、体が新しいものを求めようとするんですよ。それで作品の新鮮度が保てるんじゃないかな。
ほんのちょっとしたことでもいいから、新しい発見があって、それを利用して作品を作る。すると、見た目は変わってなくてもやっぱり感動があるわけです。そしたら見る人も、「あ、去年と同じようだけどちょっと違うね」となる。だから、自分がワクワクするための、ワンクッションを置くのに非常に役立っています。

ここはアートがあるから豊かなんだ

—しろいし緑の芸術祭は、佐賀県で初の芸術祭となります。参加アーティストの打診があったとき、どう思われましたか。
アートが盛んなイメージはないので、正直、意外でした。でも、佐賀の方でもだんだんとこれまで—学校で教わる、ギャラリーの固定化—とは別の動き、新しい美術が出てきているとも感じます。佐賀が変わったのもあるんでしょうけど、昔に比べて国内も海外も移動しやすくなったし、ネットなどでもつながりやすくなりましたね。

—今回は、ふくどみマイランド公園に大きな立体のオブジェ「いつものところで」を制作されました。作品のコンセプトや制作過程を教えてください。
マイランド公園に入った瞬間に「ここのシンボルになるような、親しみが持てる作品ができたらいいな」と思いました。
僕は、場所のためにイメージして描いたり作ったりしたことは1回もないです。だから、コンセプトというものはありません。
紙のマケットでわ〜っといろんな形を作って、その中から「あの場所にはこれだな」って感覚でセレクトしています。それを一旦鉄で起こして、決めました。

「いつものところで」の制作時に作った紙のマケットの一部。(写真は作家提供)

大きさや色は現場に持って行って合わせましたね。色は、はじめは黒でイメージしていたけど、「明るい色がいい」とリクエストもあったし、実際に現場で合わせたら黄色がいいなと。大きさは発泡スチロールで原寸大を作って持って行きました。 実際にステンレスで作るときは、マケットの設計をIllustratorで起こして、それを看板屋さんが原寸でプリンター出力、最後にいつもお願いしている鉄工所で溶接してもらっています。

人と人が向き合ったように見える『いつものところで』。鮮やかな黄色が青い空に映える。

—近年、日本各地で芸術祭やアートイベントが開催されています。良し悪しにかかわらず、観光や地域活性化にアートが利用されている状況がありますが、どう思われていますか?
アートって全てそういうことだと思うんですよ。年間何千万人がルーブルを訪れる。ポンピドゥ(※)を訪れる。だから、アートがある土地はゴッホやピカソたちが食うや食わずで残した作品を管理するだけでお金が生まれているわけです。パリの版画工房にしばらくいたことがあったのですが、職人たちは時間になったらどんなに途中でもパッと切り上げて帰る。なんでこんなに余裕があって豊かなんだろう、と考えたら「そうか。ここにはアートがあるじゃないか」と気づいたわけです。
※…パリのジョルジュ・ポンピドゥー国立芸術文化センター。近現代美術のコレクションの規模は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)に次いで世界で二番目に大きい。

世界大恐慌の時に、ニューディール政策の一環で多くのアーティストがパリからニューヨークに移りました。(※)それは、アートがお金になると考えられたからですよね。そして、芸術の都はニューヨークに変わっちゃったでしょ。
日本は、絵なんて金にならないってずっと言われていたけど、アートはお金になるんですよ。それを、アートフェアや芸術祭で少しずつでも広めてほしいですね。そこでお金が回れば、アートも発展するし、作家も良い仕事ができるし、社会の中でちゃんと大きなうねりを生み出せます。
※…ニューディール政策の一環として実施された「フェデラル・ワン」政策。演劇、音楽、美術などの各分野で積極的なプロジェクトを推進し、雇用を作り出した。結果として、欧州の多くのアーティストがニューヨークに移ることになった。

—なるほど。言われてみると確かにそうですよね。塚本さんの注目している美術館や芸術祭はありますか。
ビルバオのグッゲンハイム美術館(※)ですね。元々、鉄鋼の町なんだけど鉄鋼所も廃れて、町全体がだらんとなっていたんです。町おこしをどうしようかとなって、作られたのがグッゲンハイム美術館。建設費や運営費に数十〜数百億の莫大なお金がかかっているけど、それを数年で黒字化したんですよ。
開館から25年以上経った今でも世界中から人が来る人気の美術館です。この規模でチャレンジされちゃうと、もうそれはすごいですよ。これぞ、って決めた時にお金をどんどん使うことが重要だと思います。
※…スペイン・ビルバオの美術館。フランク・ゲーリーによる建築も有名で、高く評価されている。都市のシンボルとなり、イメージアップにも貢献した美術館として知られている。

しろいし緑の芸術祭は、地域に愛着がある人たちががんばって、よそのアーティストを呼んでやっているのがすごく良い。もっとボンとお金をかけて10倍ぐらいアーティストを呼べたら、本当に大きな芸術祭になると思うけど、とりあえずは10年ぐらいのスパンで、毎年ひとつずつ作品が増えていったら結果的にはすごいものになる。そういうスタンスで続けていけばいいんじゃないでしょうか。

聞き手:穴瀬聖・立野由利子 文・立野由利子 撮影:勝村祐紀

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